皆さんはそれぞれ趣味をお持ちのことと思います。
そして趣味の時間は、生活の中における精神的な支柱となっていると思います。
しかしながら、果たしてこの趣味の時間は本当に生きていくのに必要だろうか? と考えてしまうことが私には時々あります。
もちろん、時々このようなことを考えるからといって、私が趣味をやめることはありません。
その理由は恐らくですが、私が無意識のうち「趣味の重要性」に気がついているからだと思います。
今回は、私が無意識のうちに考える「趣味の重要性」というのを簡単に考えていきたいと思います。
お付き合いいただける方は、どうぞこの先を読み進めてください。そんなに長くはありません。
趣味はある意味「無駄」か
趣味は、捉え方によっては「無駄」と言われてしまいます。
確かに、趣味は人間が生きていくのに「最低限必要な衣・食・住」の領域を超えた人間活動です。
(確認ではありますが、「最低限必要な衣・食・住」とは、ファッションや美食、豪邸などといった類いのものを含みません。)
極論を言えば趣味が無くても生きていけます。
それでは、趣味というある種の「無駄」を取り除いた状態というのは、どういった状況なのでしょうか。
「歩くこと」を考えてみる
歩くときに必要な幅は?
単純に歩くことを例にして考えようと思います。
まっすぐ歩くためにどのくらいの幅が必要でしょうか?
恐らく平均台の2倍くらいの幅があれば十分でしょう。
そのくらいの幅があれば、普通にまっすぐ歩いていけると思います。
別に歩く分にはその幅で十分ですから、普段我々が歩いている大地は相当無駄が多いことになります(笑)
趣味の無い生活というのは、ちょうど平均台のようなところを歩くのと似ていると考えています。
逆に言えば「趣味の広がり」は歩くときにおける「道幅の広がり」だと私は考えています。
横から風が吹くこともある
確かに歩くのに必要な幅はそんなに広くはないです。
逆に無駄な幅がなくて蛇行をしないから、目的地には早くつけるかもしれませんね。
しかし、例えば横から突然強風が吹いて来たとしましたら如何でしょう。
細い道幅で両脇が崖だったとしたら危険だとは思いませんか?
また、歩き疲れて足元がおぼつかなくなったとしたら、これも危険ではないでしょうか?
今まで問題なく歩けていたのに、ちょっとした環境変化で崖に転落してけがをする可能性があります。
そう考えると、道はある程度広かった方が良いのです。
趣味の広がりは心の広がり
「趣味の無い生活を送る」というのは、先ほども述べました通り、「平均台のような道を歩む」ということに似ていると思います。
しかし、「平均台のような道を歩む」ことは危険性を伴うことでもあります。
それでは「趣味の無い生活を送る」ことも同じように危険だと思いませんか?
趣味を排除し、仕事や家事など必要なことだけをする生活は無駄がないし生産性も高そうです。
それで問題なく過ごせたら良いのかもしれません。
しかし、人から嫌なことをされたり、体の調子が悪くなったりといったイレギュラーな「横風」が私たちの精神的肉体的活動を揺すぶる可能性も高いでしょう。
人生において、イレギュラーな出来事、特に嫌な出来事を避けることは実質不可能です。
こういった時、私たちはは好きな音楽聴いたり、無心に体を動かしたり様々な方法で自分を取り戻そうとします。
あるいは、趣味に打ち込むことで得た考え方や経験をそこで生かすかもしれません。
しかし、イレギュラーな出来事による衝撃が大きすぎて、それに対処できないとき、私たちは心を病んでしまったり、道を踏み外したりしてしまう危険があります。
打撃が大きいこと、例えるならば「強い横風」に対処できるかどうかは、その人の心の広がりに関わっていると思います。
この「心の広がり」が、歩くときにおける「道の広がり」です。
先ほど「道の広がり」と「趣味の広がり」は似ていると申しました。
ですから、私は「心の広がり」は「趣味の広がり」に直結してくると思います。
趣味を大切に
時に「無駄」に思える趣味ですが、「心の広がり」を得るうえで重要な役割を果たします。
「心の広がり」を持つことで、様々な事態に対処し自分を保つ能力が生まれます。
同時に趣味は退屈な日常に華をもたらし、人生を豊かにします。
どうぞご自身の趣味を大切になさってください。
