純粋無垢な私には、なぜこのように言われるのかわからなかった。
コールがかかり一気飲みをすると拍手が起こる。
すると再びコールがかかる。
さらに飲むと勇者とたたえられ、調子に乗っているうちに最後に何かを放出してからぶっ倒れる。
もちろん、聖人君子たる私は、このような場を見たことがない。
だから「酒は飲んでも飲まれるな」ということわざを、これまで自分はなかなか理解することができなかった。
疎外
「疎外」という言葉をご存じだろうか。
普段は「疎外感」などと使われていると思う。
例えば
「飲み会において箱入り息子であった私はお酒が飲めないために、酔って盛り上がっている周囲についていけず、”疎外感”を感じた」
という感じで使われる。
しかし、今回は「疎外」という言葉を少々違った意味で用いようと思う。
この記事において、「疎外」とは「ある目的を果たすために自分(または人間)が行った手段・行動・アイディア・システムが独り歩きして、自分(または人間)のコントロールから独立し、目的を果たすどころか逆に自分を縛り付けたり害を与えたりする」ということにする。
身近な例で考えたい。そもそも、そのためにお酒の話を持ち出したのである。
楽しくなるため
なぜお酒を飲むのかというと、「楽しくなるため」だろう。
具体的には、日々の疲れや悩みを吹っ飛ばすために飲む、もしくはお酒の力で思い切ったことをするために飲むのである。
私には到底理解できないことであるが、どちらもお酒が好きな人にとっては楽しいことなのだと思う。
しかし飲む量が一定量を超えると、「楽しくなるため」という目的は失われ、「お酒を飲む」という手段が独り歩きし、皮肉にも激しい不快感を覚えることになる。
これが「お酒に飲まれる」ということだ。
「酒は飲んでも飲まれるな」とは、酒に「疎外」されるな、ということである。
「疎外」とはそのようなイメージである。
全然違う気がする。
哲学が詳しい人に怒られてしまう...
よろしい。「疎外」という表現は撤回しよう。
最近哲学書を読んだから背伸びしたかっただけである。
「ありえねーション」
今からこれを「疎外」の代わりに採用する。
お酒に飲まれて流石に「ありえねーション」。
と言ったように使うとしよう。
これならば誰にも怒られまい。
以下「ありえねーション」を正式に使っていきたい。(カッコがついてるかどうかは重要である)
いや、これは流石にありえねーションだろwwwと思った方もいるかもしれないが、そう思うこと自体が日本語のルールに「ありえねーション」されている可能性を考えて頂きたい。
意味が分からなくても良い。
我々は「ありえねーション」に「ありえねーション」されるかもしれないからだ。
いや「ありえねーション」自体も「ありえねーション」に「ありえねーション」されるかもしれない。
...
...
ヴィオラ!
そうだ、私はヴィオラの話をしたかったのである。
ヴィオラは楽しい。
ヴィオラをやるということはオケをやることとほぼ必要十分条件であるから、オーケストラ活動も楽しい。
楽しくないとやる意味はない。(誤解を生まないために、ここでいう「楽しい」は相当意味の広い言葉だと考えて頂きたい)
そこで音楽活動全般について一つ吐き捨ててこの記事を閉じたい。
「オケ活動が辛い」と思うことがあるだろうが、その場合、オケ活動に「ありえねーション」されている可能性を一旦考えた方が良いだろう。
ぐずぐず悩むことはありえねーションである。
オケは楽しむために始めたはずなのに、そのオケによって極度の辛さを感じるのは絶対にありえねーションである。
君は絶対に何かを見直した方が良さそうである。
某友人に捧ぐ
P.S.
飲み会のとき乾杯から30分くらいしか覚えていなければ、あとは野となれ山となれ。酒に飲まれている飲み会の惨状など知ってるはずはないよね。