夢心地の中、私は思った。
音程がずれている。
このAは339ヘルツだ。
世界標準の442ヘルツと3ヘルツもずれている。
気持ちが悪い。
気持ちが悪すぎてだんだん目が覚めてきた。
意識が鮮明になってきたところで、やっとその音の正体を思い出した。
昨日買った新しい目覚まし時計の音である。
「絶対音感保持者には効果的」という宣伝文句につられて衝動買いしてしまったのだが、なるほどこれは効果抜群である。
わざと狂った音程の音を出して、気持ち悪さで目覚めさせるという発想は一体だれが考え付いたのだろう。
朝からずれた音を聞いてテンションは下がるが、いつもより早くにオフトゥンから出られたので一応は満足である。
今日は1限に間に合う。
あと2回遅刻したら留年なので、今日1限に間に合うことで得られる精神的な余裕は値千金だ。
しかし、早く起きたからといって油断は禁物。出発の準備を始めなければならない。
いつも通り、洗面所に行って顔を洗い目を覚ます。
次に、キッチンへ行ってパンをトースターに入れてねじを回す。
このトースターは1週間前に買い替えたものなのだが、なかなか気に入っている。
なぜならば焼きあがったときの「チーン」という音の音程が正しいからである。
この音程がパンのおいしさを決めるといっても過言ではない。
おや、もうパンが焼けたようだ。
大好物のピーナッツバターをたっぷりパンにぬり、かじりついた。
パンをかじりながらリモコンを手に取り、テレビをつけた。
やはり朝の番組はZIPに限る。
今日の内容はなかなか面白い。
ついつい見入ってしまっていると、ZIPでポン! が始まってしまった。
なんだかんだでそろそろ着替え始めないとまずい。適当に青いボタンを押し、引き出しから洋服を出す。
ちなみに、引き出しを引き出すスピードは非常に大事である。
少しでも速度が違うと、引き出すときに鳴る音程が狂うからだ。
これは何年もやっているので慣れている。今日も問題なく洋服を取り出すことができた。
急いで洋服を着て、テレビ画面を見ると、ZIPでポン! が当たっていた。
今日はいいことがあるかもしれない。
そんな期待をしながら家をでる。
意外と家でのんびりしてしまったので、電車の発車まであまり時間がない。
小走りで駅に向かう。
いきなりであるが、私は駅が嫌いである。
駅では、一定間隔で「ソーーーミーーー」という音が流れるが、この音程が非常に悪いからである。
あれを真面目に聞くと気分を害するので、駅はできるだけ耳をシャットダウンするようにしている。
しかし、聞こえてくるものは聞こえてくるから、どうしようもない部分がある。
せめて音程は合わせてほしい。どうにかならないものだろうか。
最寄りの駅から私鉄に乗り、横浜駅でJRに乗り換える。
横浜駅のJRホームに立っていると、向こう側で京浜急行の列車が出発をした。
京急は出発時に音階を奏でる。
これを鉄道オタク界隈では「ドレミファインバータ」というそうであるが、正確には
「ファソラ♭シドレ♭ミファソ~~~」
であり、違和感を拭い去れない。
しかもこれはGmollつまりト短調の音階である。(1音目のファは装飾音だと私は考えている)
これから出発するというのに、なぜ短音階を奏でるのだろうか。
駅を離れる悲しみでも表現しているのだろうか?
どうでもよいことを考えているうちに、東海道線、否、上野東京ラインが到着した。
今日は遅延していないようだ。
そもそも私の単位が危ないのは、上野東京ラインがいつも遅延しているからなのだ。
路線を長くするデメリットは考えたのだろうか。
まあ、私のような弱小大学生が何を叫んでも世の中は変わらない。
現状を受け入れるしかないのだ。
電車に乗り込み、Twitterをやっているといつの間にか電車は品川を発車しようとしていた。
おやおや、発車メロディーが変わっているではないか。
旋律は変わっていないが、伴奏が変わったようである。
ん~~~微妙。ちょっとコード進行に不満が残る。まあ、音程は許容範囲だし良いことにしよう。
再びTwitterにかじりついているうちに、東京駅に着いたので電車をおりた。
東京駅から電車を乗り継ぎ、大学の最寄り駅についた。
改札を出るときにスイカを「ピッ」とやるのだが、これも少し音程が低い。
さすがに慣れたのであまり気にはならないが。
どうやら余裕で1限に間に合う時間のようだ。
ほっとしながら教室に入ると、友人が
「めずらしく早いな」
と、声をかけてくれた。
「めずらしく」という言葉は余計だったが、ほめられているので言い返すのはやめておいた。
教授が教室に入ってきた。
常にテンションが高い教授が、今日はさらに興奮気味だ。
いつもの教授の声の音程はGであるが、今日はGisに肉薄している。
何か良いことがあったのだろう。
今日中に何らかの媚びを売っておこう。
おっと、楽譜に小節番号を振っていないことに気が付いてしまった!
教授には申し訳ないが、授業中に内職することにするか。
長らく小節番号を振るのをさぼっていたのだ。
曲はピアノコンチェルトで、今日はソリストとの初合わせだ。
小節番号を振っておかなければさすがにまずいだろう。
しかし、小節番号を振っているうちにだんだん眠くなってきた。
睡魔には勝てない。
寝ることにしよう。
友人に声をかけられ、目を覚ました。
もう昼ごはんの時間だそうだ。
1限から寝始めたはずなのだが、知らないうちに2限が終わりかけている。
まあそんなこともあるさ、と思いながらマクドナルドへに入り、チーズバーガーセットをテイクアウトした。
そういえば今日はポテトの音が聞こえなかったな。
ソファソ、ソファソ、ソファソ、ソファソ
あれを聴くと、午後の授業中に頭の中で無限ループするから、逆に運が良かったのかな?
出来立てじゃないから、ポテトはしなしなだけどね。
午後の授業も終わり、ピアノソロとオケの合わせ練習が始まった。
練習中吐き気を催した。
主たる原因はピアノの音程であった。
一体何年調律をやっていないのだろう。いくらなんでもひどすぎる。
そうでなくても私はピアノの音程が苦手である。
私は純正率の信者であり、十二平均律の妥協的調律はいまいちしっくりこないのである。
まあ、ピアノは仕方がないんだよね。
でも、調律されてないピアノとなると、話は全く別である。
そうこうしているうちに、吐き気は本格的になっていく。
仕方がないので、体調不良を訴え、オケの練習を早退することにした。
大学の保健センターで少し休んでから、帰路についた。
例のごとく嫌いな駅を秒速で通り抜け、電車に乗り込んだ。
同じ車両に同級生のKさんがいる。
タイプな子であったが、私など見向きもしてくれないので、あきらめていた。
こちらには気づいていない様子である。
彼女はおもむろにケータイを取り出した。
なんと、、、ガラケーか!
いまだにガラパゴス諸島にお住まいとは、、、
どうやら誰かに電話するようである。
電車の中で電話をするのは、マナー違反だが、そんなことで声をかけたら嫌われてしまうので放っておくことにした。
しかし、気になることには気になるので、横目で見ていたら、なんと電話番号を手打ちしている。
しかも、番号を打つ音が聞こえてくるのだ。
マナーモードにしろよ...と思ったのだが...
ん? 待てよ...これはあまりにも無警戒ではないか?
電話番号は数字ごとに音程が違い、音階になっているのである。
絶対音感を持つ私にとっては、電話番号10桁の音程を正確に記憶することは、飯を食うより簡単なことだった。
これはいけないことだと自分の心にブレーキをかけようと必死だった。
だがしかし、聞いてしまったものを消去することはできなかった。
電話番号はほぼ無意識のうちに特定された。
その電話番号は私の一番仲の良い親友Sの電話番号であった。
目の前が真っ暗になった。
世の中には知らなくてもよいことがあるのだ。
世の中には持たなくてもよい能力もあるのだ。
練習中からの体調不良もあいまって意識が遠のき、電車内で倒れてしまった。
目が覚めると、私は救急車の中にいた。
倒れたときに強く頭を打ったようで、念のため病院に搬送されているそうだが、幸い意識は大丈夫である。
救急車を呼んでくれたのはあのKさんで、救急車にも同乗してくれていた。
目の前にいるのだからSの話を聞かない手はない。
勇気を振り絞って聞いてみた。
笑顔だったKさんの顔が一瞬で暗くなった。
車内に気まずい雰囲気が流れたが、しばらくするとKさんが口を開いた。
どうやらあのあと、電話越しにSに振られたそうである。
またもや衝撃である。
今まで付き合っていたのかよ...
まあ、そんなことはどうでもいい。
私はそのようなことを気にするような小さい人間ではないと自負していた。
これはどう考えてもチャンスであった。
絶対音感も捨てたもんではない。
「話を聞くよ」
私はKさんに言った。
Kさんは微笑みながら、
「病人は寝ていなさい」
と返した。
まあそうなるわな。
でも、今後に大きな希望が持てることには変わりがない。
ところで、この話は一話完結なのだろうか?
筆者のヴィオラでポンさんよ。一話完結のつもりだったのであろうが、今日は思いもよらない一日となった。どうか私のために続編を書いてほしい。
インターネット回線の中にしか存在できない私が生き残るには、このブログの筆者に懇願するほかに方法はない。
頼む! ヴィオラでポンよ!
おしまい。